化学よもやま話 特別寄稿
躍(をどる) ~素直さと明るさと情熱を~ 第16回
東京大学名誉教授 東京工業大学名誉教授 向山 光昭
タキソールの全合成(7)
さて,最終段階はイソセリンのカルボキシル基とA環のOH基のエステル化です。A環のOH基はタキソール固有のcup状構造に阻害されたOH基であるため,通常用いられるエステル化の手法では進行しないことがわかりました。
そこで種々検討の結果,DMAPの存在下,オキシピリジンのチオカーボネートを作用させるとイソセリンが導入できることがわかりました。これで,保護基を除いて8員環のB環を出発物質とするタキソールの全合成の新しいルートが完成しました。
このようにして,非常に簡単な出発物質から,不斉アルドール反応で2つのOH基がantiの配置をもつキラルな化合物を合成して8員環のB環を構築し,C環部を導入してさらにA環部を構築し,その上で二重結合を形成してABC環を,引き続きC環にD環に対応するオキセタンを形成して,最後にフェニルイソセリンを導入する全合成ルートが完成しました。全合成の過程ではいろいろなヒントから新しい合成手法が考え出されると同時に,8位のメチル基を欠いた脱メチル体のような,天然物からは得ることが困難な興味ある誘導体をつくることもできました。
おわりに
研究の過程では紙の上で考えたアイデアどおりに進むことはほとんどありません。むしろ思いがけない現象が起きた時にこれを詳細に解析し,如何に期待にそぐわなくても与えられたその結果を「素直」に受け止め,しかも希望を失わず「明るく」積極的に「情熱を持って」努力を続けることこそが成功の秘訣です。面白いタネはむしろ失敗の中にこそ隠されているのです。
東京大学退官後,東京理科大学に移り,何もかも新たにゼロから研究室を立ち上げ直した時は一つの結果を出せるようになるまでかなりの間辛抱を必要としました。当時の小生のモットーは「へこたれない」です。跳ね返されても,跳ね返されても,ひたすら自らの信念に基づき実験を続ける。このタキソール研究でも,途中で何回も難しい問題に直面しましたが,とにかく「我々は出来るのだ」ということを大前提に,「出来る」と思い込んで諦めずにトライしてゴールに向かっていったことがよかったと思っています。
研究課題は無尽蔵にあります。その膨大な課題の中から価値ある一つのタネを見つけだすのは化学者にとって容易なことではありません。しかし,そこで止まって諦めたり投げ出したりすればゼロになってしまいます。懸命に仮説を立て,実験を繰り返すうちに知恵が蓄えられ,それが直感力を育て,はじめて興味深い一つのタネに巡り合えます。走り続けてこそ得られる成果なのです。
最後に読者の皆さんの将来を願い,次の言葉を贈ります。
“Catch the Interesting While Running!”
恩賜賞,学士院賞受賞 1983年(昭和58年)
文化勲章受賞 1997年(平成9年)
写真左より 大内秘書,小林修先生(現東京大学大学院薬学系研究科教授),向山光昭先生,椎名勇先生(現東京理科大学理学部応用化学科教授)
(了)
執筆者紹介
向山 光昭 (Teruaki Mukaiyama)
1927年長野県伊那市生まれ。1948年東京工業大学卒業,1953年学習院大学理学部化学科講師,1957年同助教授,1958年東京工業大学理学部化学科助教授,1963年同教授,1973年東京大学理学部化学教室教授,1987年退官,1987年東京理科大学理学部応用化学科教授,1992-2002年東京理科大学特任教授,2002-2009年社団法人北里研究所基礎研究所有機合成化学研究室名誉所員兼室長。
日本化学会賞,恩賜賞,ACS Award for Creative Work in Synthetic Organic Chemistry,フランス国家功労章シュバリエ,文化勲章,文化功労者,藤原賞,全米科学アカデミー会員等,多数受賞。
2004年に喜寿を迎えられたこと,米国国立科学アカデミー外国人会員に選出されたことを記念し,有機合成化学協会「MUKAIYAMA AWARD」が創設される。
日本化学会会長,有機合成化学協会会長等を歴任。ポーランド科学アカデミー外国人会員,フランス科学アカデミー外国人会員,西ドイツ・ミュンヘン工科大学自然科学名誉教授博士号,アメリカ科学アカデミー会員,日本学士院会員,日本化学会名誉会員,有機合成化学協会名誉会員,東京大学名誉教授,東京工業大学名誉教授,社団法人北里研究所名誉所員等。
向山光昭先生の特別寄稿「躍(をどる)~素直さと明るさと情熱を~」は,今回で終了です。ご愛読ありがとうございました。