化学よもやま話
ウィキペディアの話
愛知大学 文学部 図書館情報学専攻 教授 時実 象一
1 ウィキペディアの話
今の学生は,腕時計を持っていません。携帯があれば時間がわかるからです。今の学生はどこかに出かけるとき地図や電車の路線図を持ちません。携帯で簡単に道が調べられるし,電車の乗り換えもわかるからです。今の学生はレポートの宿題がでると,図書館で本を開くのではなく,ネットで調べます。ネットでウィキペディアを見れば,相当詳しいことが書いてあるので,それをコピーします。というわけで,今の学生にとってウィキペディアは神様のようなものです。学生ばかりではありません。政治家も新聞記者も教師もウィキペディアを重宝しています。ただしそれをあまり大きな声でいわないだけです。ではその便利なウィキペディアとはなんでしょう。
2 ウィキペディアとはなにか
ウィキペディアの記事は誰がかいているのでしょう。ウィキペディアという会社が依頼した専門家でしょうか。実はウィキペディアの記事は皆さんの誰でも書いたり修正したりすることができます。実際膨大な数のボランティアが書いています。誰でも書くことができる記事に信頼性があるのでしょうか。実はこのプロジェクトを始めたジミー・ウェールズ氏も当初はそのことを心配していました。彼はインターネットの無料百科事典の構築を目指し,最初は専門家が記事をレビューする仕組みを考えました。しかしこの方法では記事がなかなか集まらず,しばらくしてもやっと 100 件くらいと,とても百科事典を目指すのは無理なことがわかりました。そこで当時使えるようになったネットの編集ソフト,ウィキを使ったサービスに切り替えました。しかしウィキは誰でも書いたり直したりできるので,いたずらや荒しで,百科事典がめちゃめちゃになるのではないか,としばらくは夜も眠れなかったそうです。ところがふたを開けてみると,そんないたずらはほとんどなく,みるみる記事が増え,たちまち 1 万件を越したということです。これは「自分の知っていることをみんなに伝えたい」というネット利用者が多いという証明です。間違ったこと,でたらめなことを書いても誰かが修正するので,全体としては信頼性が保てています。私の図書館情報学専攻の授業では,毎年 1 年生にウィキペディアの記事を書かせています (NHK ニュースで放映されました(写真))。
3 化学におけるウィキペディア
日本語版のウィキペディアには現在 77 万件の記事があります。英語版は 377 万件です。この中に化学に関連する記事がどのくらいあるか,簡単にはわかりません。感触としては,基本的な低分子化合物・無機物質や医薬についての記事は比較的あるようです。いくつかの化合物についてネットで使える各種辞書における項目の有無を比較したのが次の表です。

表1. ネットで使える各種辞書における項目の有無
これら事典の「酸化チタン」の記事を比較すると次のようになります。参考のため The Merck Index の該当項目も示しました。

図1. ウィキペディアの「酸化チタン」の項目(約 1/3 を表示)

図2. 世界大百科事典(平凡社)の「酸化チタン」の項目

図3. デジタル化学辞典(森北出版)の「酸化チタン」の項目

図4. 日本大百科全書(ニッポニカ)(小学館)の「酸化チタン」の項目

図5. The Merck Index(13 版)の「Titanium Dioxide」の項目
こうしてみると,ウィキペディアの詳しさは群を抜いています。他の事典では,主として化学的・物理的性質を簡単に述べているのに対し,ウィキペディアでは,用途や毒性その他の話題など,新聞記事的な (ときには野次馬的な) 事まで詳しく書いてある点に特徴があります。したがって,ある化合物について広く情報を得るには大変便利だといえます。一方 The Merck Index は研究者に便利なように文献を丁寧に引用しているところが優れています。
4 ウィキペディアは引用できるか
ウィキペディアは学術論文で引用できるでしょうか。引用できるといっている人もいますが,私は引用してはいけないと考えています。その理由は,次のとおりです。
1. 記事は複数の匿名またはペンネーム(ハンドルネーム)の執筆者が書いたものであり,記載内容についての責任が明らかでない。
2. 記事の内容について査読など責任あるチェックがおこなわれていない。
学術論文で引用するには,その文献等の著者が明らかであり,内容が信頼にたると第三者に(たとえば査読によって)保証されているものである必要があります。ウィキペディアはその要件を満たしていません。以前宮沢喜一元首相が亡くなったとき,静岡新聞のコラムで,宮沢氏のエピソードとして,「旧ソ連の外相グロムイコとやりあって恫喝したという伝説」を紹介しました。しかしこれは実はウィキペディアの記事の引用でした。そのウィキペディアの記事にはこの逸話の出所が書かれておらず,したがって真偽不明といわざるを得ません。静岡新聞は謝罪して担当者を処分しました。ウィキペディアを引用すると,知らずに誤ってしまう危険があります。「利用すれども引用せず」が正しい立場だと思います。良いウィキペディアの記事には多くの参考文献が書かれているので,必要ならこれらを引用してください。
5 化学者はウィキペディアを書こう
とはいえ,ウィキペディアの影響力は大変なものがあります。新聞記者は,専門的でわからないことばがあれば必ずウィキペディアをチェックします。したがってそこに化学者の目から見て不適切なことが書いてあれば,大変困ったことになります。
化学関連項目は専門性が高いため,誰かが記事を書いたあと,他の誰もチェックしていない場合がよくあります(画面右上の「履歴表示」をクリックすると編集履歴がわかります)。たとえば「アルキルアルミニウム」の記事は実質ひとりの人が書いたものが,字句の修正のみでそのまま載っています。こうした記事は内容が誤っていたり,記載が不適切な可能性が否定できません。この記事の場合,アルキルアルミニウムは「重合触媒として優秀な性質を持っており」と書かれていますが,これは「重合の助触媒として」がより適切です。もしそのような記事を見つけたらぜひ修正していただきたいと思います。化学者がウィキペディアに関心を持つことにより,化学の正しい知識を世間に広めることができます。
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執筆者紹介
時実 象一 (Soichi Tokizane) 愛知大学 文学部 図書館情報学専攻 教授
[ご経歴] 1968年 東京大学大学院理学系研究科化学専門課程(修士課程)修了,1968年 東洋レーヨン株式会社(現 東レ)研究員,1976年 社団法人 化学情報協会(現 化学情報協会),1995年 Chemical Abstract Service(CAS)アジア太平洋地区責任者,その後科学技術振興事業団などを経て2005年 愛知大学文学部教授,現在に至る。国立国会図書館 科学技術関係資料整備審議会委員ほか各種委員。主な著書「インターネット時代の化学文献とデータベースの活用法」化学同人,「SciFinder活用法—賢い化学情報検索のために」サイエンスハウス,「理系のためのインターネット検索術—ホンモノ情報を早くみつける」講談社
[ご専門] 化学情報学,図書館情報学