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化学よもやま話
分子の世界のギネスブック(2)
佐藤 健太郎
さて前回に引き続き,化学の世界のレコードホルダーたちをお目にかけよう。今回紹介するのは,味覚・嗅覚分野のチャンピオンたちだ。実験の合間,ティータイムの息抜きにご覧いただければ幸いである。もしここに記したものを上回る化合物をご存知の方がおられたら,筆者までご一報いただきたい。
◯ 味覚
人間の体はカロリー確保のため,甘いものを求めるように作られている。しかし飽食の現代にあっては,糖分の摂りすぎこそが健康を害する敵となっている。このため砂糖に代わる甘味化合物の探索は古くから行われてきた。ではこれら甘味化合物のチャンピオンは,一体どんな化合物だろうか?
近年使われている甘味料では,アスパルテームが砂糖の180倍,サッカリンは300倍,スクラロースは600倍という強い甘味を示す。しかし2002年にアメリカで,2007年には日本でも使用が認可された「ネオテーム」はこれらの遥か上を行き,その甘味はなんと砂糖の8,000~13,000倍に達する。これはアスパルテームのアミノ基にネオヘキシル基を結合させたもので,熱安定性なども向上しているといわれる。
スクラロース
アスパルテーム (R = H),ネオテーム(R = CH2CH2CMe3)
しかしこの後も甘味探索は続いており,現在のレコードホルダーはグアニジン系の甘味料「ラグドゥネーム」のようだ。この化合物の甘味は砂糖の220,000~300,000倍にもなるというから,1 mgのラグドゥネームは大ビン1本ほどの砂糖に匹敵することになる。これではコーヒーをちょうどいい甘さに調節するのさえ至難の業ということになりそうだ(ただしラグドゥネームは食品用には未認可)。
ラグドゥネーム
それにしてもこうした甘味化合物はどうやって発見されるのだろうか?実は19世紀頃までは,論文誌に化合物の融点や沸点,色,形状などの他に「味」を記載する欄があり,化学者が新規化合物の味見をすることがあった。ここでいくつかの甘味料が発見されている。もちろんこれは危険な行為であり,現在では考えられない——といいたいところだが,近年見出された多くの甘味料は,実験者の不注意で偶然に化合物が口に入ってしまって発見されたものだ。
ちなみにスクラロースは,教授が「ではその化合物をテスト(test)してくれ」と指示したのを,学生が「味見(taste)」と聞き違え,舐めてみたら甘かったというまるで笑い話のようないきさつで発見されている。有機塩素化合物だから,知っている人であればまず舐めてみたくはない化合物だが,これが無害であったのは学生にとって幸いなことだった。この聞き違えのおかげで,スクラロースは年間50億円以上の売り上げを挙げているというから,世の中どう転ぶかわかりはしない。
実は,甘味のある化合物は意外に多くあるらしい。化学者にとってなじみ深い化合物でいえば,クロロホルムやニトログリセリン,D-トリプトファンなども意外なほど強い甘味を持つことが知られている。もちろん舐めてみてはいけない。世の中甘い化合物よりも毒性の強い化合物の方が遥かに多いのだから,一攫千金を狙ってちょっと化合物の味見をしてみる,などという「甘い」考えは起こさない方が賢明だろう。
◯ 苦い化合物
苦みは,アルカロイドなど天然に存在する毒性物質を知覚するための警戒信号として発達した味覚であるといわれる。実際,カフェインやキニーネ,ストリキニーネといった代表的なアルカロイドは,いずれも強い苦みを持つ。キニーネは1 ppmのオーダーでも苦みを感じることが知られており,苦みの標準物質として用いられるほどである。
キニーネ
ストリキニーネ
基本的に塩基性を示す化合物は苦い味を持ち,炭酸ナトリウムや石けん水なども舐めれば苦い味がする。面白いのはフェニルチオカルバミドという化合物の場合で,これは約75%の人には強い苦味を感じさせるが,25%の人には全く味が感じられない。これはTAS2R38という苦味受容体の構造の違いによると考えられ,メンデルの法則に従って体質が遺伝することがわかっている。なお,ブロッコリーにはフェニルチオカルバミドに似た苦み成分が含まれることがわかっている。ブロッコリーが苦手で食べられないという人がいるが,これは,あるいは遺伝で決まっていることなのかもしれない。
フェニルチオカルバミド
さて苦味の世界チャンピオンは何かというと,現在のところ安息香酸デナトニウム(商品名ビトレックス)という化合物がその座にあるようだ。四級アンモニウムイオンと安息香酸陰イオンから成り,苦味はアンモニウム側にある。この化合物の苦味検知閾値は10ppbというから,浴槽一杯の水に耳かきひとすくいのデナトニウムで十分苦味を感じる計算になる。2つのN-エチル基を取り去ったり,メチル基に置換したりすると苦味は激減する。
安息香酸デナトニウム
こんな苦い化合物にも使い道はある。不凍液・洗剤・工業用アルコールなど,飲んではいけないものにごくわずか配合するのだ。子供などが誤ってこれらを飲み込もうとしても,デナトニウムの苦さのせいで吐き出してしまい,中毒が防がれる。苦い化合物も使い方次第で,安全を守るために貢献できるというわけだ。
◯ 臭い化合物
実験化学者のみなさんは,試薬の強烈な臭気に悩まされた経験をお持ちだろう。カルボン酸,アミン,ホスフィン類,有機スズ化合物,チオール類など,いずれも強力なドラフトを使っていてさえ閉口するほどの臭気だ。
臭い化合物の王者は,やはりというべきかさすがというべきか,チオール類がその座を占めている。ギネスブックに収載されている「最も臭い化合物」はエタンチオール(C2H5SH)とn-ブチルセレノメルカプタン(n-C4H9SeH)だそうで,0.5 ppb程度でも臭気を感知できるといわれる。前者は実験室でもおなじみのにおいだが,後者は試薬として販売されていないので,我々化学者でもあまり嗅ぐ機会がない。実はこのn-ブチルセレノメルカプタンという化合物,スカンクの「おなら」の成分なのだそうだ。厳しい自然界で生き残るためとはいえ,セレンなどというなじみのない元素を活用し,世界で一番臭い物質を武器として使っているのだから,これも驚くべき生命のたくみというべきだろう。
しかし人間の嗅覚は,生物界にあってはさほどのものではない。例えばイヌが人間の10倍以上鋭い嗅覚を持つことはよく知られている。しかし昆虫のフェロモン受容体は,それを遥かに上回る感度を持つ。中でも今のところ最強と目されているのは,ハキリアリというアリの一種が放出する道しるべフェロモンだ。その正体は4-メチルピロール-2-カルボン酸メチルで,計算上ではこの化合物が0.33 mgあればアリを地球一周させられることになる。今のところ,これが知られている生物の化学センサーとしては最強であるらしい。
ハキリアリの道しるべフェロモン
こうしたフェロモンは超微量で作用するため,集めて構造を解明するだけでも大変な苦労を伴う。このため未解明部分も多く,かつては昆虫にしかないと思われていたフェロモンは,近年になってイモリなどの両生類,ネズミ・ブタ・ゾウなどの哺乳類からも続々と発見されている。となるとヒトにもフェロモンはあるのか?本気で探している研究者もたくさんおり,実際に見つかったと主張する者もいる。もし本当に微量で人の行動を操れる物質があったら——さてどんな使い方をされるのか,少々恐ろしいところだ。人間はそれほど単純ではないと信じたいところだが,さて真実はどうなのだろうか。
執筆者紹介
佐藤 健太郎 (Kentaro Sato)
[ご経歴] 1970年生まれ,茨城県出身。東京工業大学大学院にて有機合成を専攻。製薬会社にて創薬研究に従事する傍ら,ホームページ「有機化学美術館」(http://www.org-chem.org/yuuki/yuuki.html)を開設,化学に関する情報を発信してきた。2008年退職し,フリーのサイエンスライターとして活動中。著書に「有機化学美術館へようこそ」(技術評論社)「化学物質はなぜ嫌われるのか」(技術評論社)など。
[ご専門] 有機化学
[ご専門] 有機化学