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化学よもやま話
勇気化合物実験
北海道大学 大学院農学研究院 教授 川端 潤
最小の有機化合物メタンCH4(1)は教科書では混成軌道や正四面体構造の説明でおなじみの分子でもあります。こんな単純な分子でもその誘導体となるとなかなか多彩でおもしろいものです。まずハロゲンで置換してみましょう。メタンの水素を1個ずつ塩素で置換していくと,順にクロロメタンCH3Cl,ジクロロメタンCH2Cl2,クロロホルムCHCl3,四塩化炭素CCl4となります。いずれも有機化学実験ではなじみ深い試薬や溶媒です。どこまでが有機化合物かというのもおもしろい問題ですが,それはそれとして水素がすべてハロゲン(F,Cl,Br,I)で置換されたテトラハロメタンはハロゲンの組合せで35種類の化合物が可能です。なかで最も興味深い分子はなんといってもブロモクロロフルオロヨードメタンCBrClFI(2)でしょう。キラル炭素の絶対配置のRS表示の説明によく登場するこの分子は残念ながらまだ合成されていません。立体化学は別にしても合成は難しそうです。
それでは一歩譲ってブロモクロロフルオロメタンCHBrClF(3)はどうでしょう。水素が1個残っているトリハロメタンの合成ははるかに易しいようで,1940年代に合成が報告されていますし,その後光学活性なトリハロアセトンからハロホルム反応による光学活性体の合成や,ラセミ体の光学分割もされています。さて問題は絶対配置です。キラルな3の絶対配置は理論的予測といくつかの実験証拠からほぼ確立されていますが,直接の証明はまだなされていません。1) 単純な置換メタンといっても単純すぎて逆に一筋縄ではいかないものです。
次に,炭化水素に目を向けてみましょう。メタンの水素をすべてメチル基で置換したテトラメチルメタンC(CH3)4(4)はペンタンの異性体のひとつネオペンタンですし,フェニル基が結合したテトラフェニルメタンC(C6H5)4(5)も何に使うのかは知りませんがちゃんと市販試薬リストにあります。ではかさ高いt-ブチル基を4個もつテトラt-ブチルメタンC[C(CH3)3]4(6)はどうでしょうか。いかにも立体障害が大きそうです。この関連の高度置換アルカンは計算化学的な報告はいろいろされていますが,この化合物はさすがに実際の合成例はありません。
「まだ合成されていない最小の飽和非環状アルカンは何か?」というきわめて興味深い報文によれば,2005年当時の未合成最小分子は1,1,1-トリt-ブチルエタンCH3C[C(CH3)3]3(7)だそうです。2) たったC14の分子ですが,メタンにt-ブチル基を3個いれてしまうと残りの1個はメチル基すら入れるのは困難ということがわかります。
同じ置換基からなる四置換メタンCX4形の分子のうち,テトラニトロメタンC(NO2)4(8)やテトラシアノメタンC(CN)4(9)は市販されています。オルト炭酸に相当するC(OH)4(10)はさすがに安定には存在しませんが,エステル形ならC(OCH3)4(11)はやはり市販品があります。
ところで,メタンのすべての水素をアジド基で置換したテトラアジドメタンC(N3)4(12)が最近合成されました。3) 分子式CN12,窒素含量93.3%というから驚きです。この化合物は不安定でなかなか単離に成功しなかったのですが,トリクロロシアノメタンCCl3CNとアジ化ナトリウムNaN3をアセトニトリル中で反応させ,GLCで分取することによって純粋な12を初めてとりだすことができました。マススペクトルから分子量180が得られ,高分解能測定値も分子式を支持しています。15N-NMRではちゃんと3本のNシグナルが得られました。また沸点は165 ℃ということですが,これは実測値ではなくGLCでの溶出位置からの見積もりです。
前々回に触れたようにアジド化合物は爆発性をもつものが多く,そのアジド基が4個も小さな分子に密集している12は見るからに危険そうな形をしています。事実純粋な12は大変危険な物質で予期しない原因ですぐに爆発するという恐ろしいしろものです。この合成の報文にも詳細な安全上の注意が付されていて,GLCで単離した1滴以下の量でもデュワー瓶ごと吹き飛ばすそうで,安全シールド越しに溶媒中に希釈して凝縮させるように,ピペットやシリンジで扱ってはいけない,と書かれています。有機化合物かどうかは別にしてなかなかに勇気のいる化合物であることは間違いありませんね。
- 1)P. L. Polavarapu, Angew. Chem. Int. Ed. 2002, 41, 4544.
- 2)K. M. N. de Silva and J. M. Goodman, J. Chem. Inf. Model. 2005, 45, 81.
- 3)K. Banert, Y.-H. Joo, B. Walfort and H. Lang, Angew. Chem. Int. Ed. 2006, 45, 1.
執筆者紹介
川端 潤 (Jun Kawabata) 北海道大学大学院農学研究院 教授
[ご経歴] 1980年北海道大学大学院農学研究科農芸化学専攻博士後期課程中退,1980年同農学部助手,1985-1987年オーストラリア国立大化学科博士研究員,1992年北海道大学農学部助教授,1999年同農学研究科助教授,2002年同教授,2006年同農学研究院教授,現在に至る。
農学博士。1992年日本農芸化学奨励賞受賞。
「おもしろ有機化学ワールド」webmaster
http://www.geocities.jp/junk2515/
[ご専門] 食品機能化学,天然物化学
農学博士。1992年日本農芸化学奨励賞受賞。
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[ご専門] 食品機能化学,天然物化学