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化学よもやま話
「塩」は「i」なもの「アジ」なもの
北海道大学 大学院農学研究院 教授 川端 潤
前回窒素の特殊性の話をしましたが,窒素には窒素同士が複数つながった色々な官能基をつくるという特徴もあります。炭素化合物の数が厖大でそれが有機化学という化学の大きな領域をなしている背景には,炭素が電気的に中性で安定な炭素-炭素結合を形成できるという特性があることはいうまでもありません。窒素もアジ化物(R-N3),ジアゾニウム塩(R-N2+),ジアゾ化合物(R=N2)のような窒素-窒素結合をもつ安定な化合物をつくることができます。ところで,これらの複数窒素官能基の電子配置を正しく書くのは意外とやっかいです。奇数個の価電子をもつ窒素を安定なオクテット電子配置にするのには電荷や形式電荷をきちんと配する必要があるためです。一酸化窒素や二酸化窒素のようにどうがんばっても不対電子が残ってしまう分子もありますが,上記の例はすべて過不足ないルイス電子式を書くことができます。落ち着いて考えれば難しくないのですが筆者も度忘れして黒板の前で立往生したことがあります。そうならないように簡単な書き方をご紹介しておきます(図1)。まず単結合ですべての原子間をつなぎ(1),原子価に余裕がある場合は最大個数の多重結合をいれます(2)。価電子数からあまった電子を非共有電子として記入します(3)。目的物がイオンの場合はここで電子数を増減します(4)。電子の増減はどの原子上でやっても同じです。すべての最外殻電子数が8になるように非共有電子対と結合電子対をやりとりします(5)。このとき,電子対の授受による電荷の発生を間違えないようにします。これでOKです。
図1
アジ化ナトリウム(NaN3)といえば,1998年に彗星のように現れて一世を風靡した毒物です。類は友を呼ぶというか事件が事件を呼ぶというか,その頃続発した研究室での異物混入事件には必ずというほど登場していました。もちろんアジ化ナトリウム自体はとりわけ毒性が強いというわけではなく,生化学用には防腐剤として普通に用いられています。筆者の研究室にも以前は当然のことながら試薬棚に無造作に置かれていました。それがこれらの事件以来毒物指定されたために,その後は厳重に施錠された棚に保管されることになってしまいました。 さて,なんでこんなにアジ化ナトリウムばかりが愛用されたのかという考証はともかく,この化合物の名前はちょっと変わっています。塩化ナトリウム,臭化ナトリウムなどの二元素間塩類の命名は,陰イオン成分を「○化」とあらわします。本来は塩素化,臭素化となるところを,「素」を省略しているのでしょう。ちなみに水素化ナトリウムだけは水化ナトリウムとはいわないのは,水和物などと紛らわしいからでしょうか。シアン化ナトリウム(こちらはおなじみの猛毒ですね)というのもあって,これはハロゲンに準ずる陰性成分としてシアン化物(cyanide)イオンをもっています。アジ化物(azide)イオンは窒素だけからなるイオンですが,形式的にはこれに似ています。対応する酸をシアン化水素酸,アジ化水素酸というところも似ています(窒化物(nitride)イオンをもつ窒化ナトリウム(Na3N)というのもありますが,これは別物です)。 では,なぜcyanideがシアン化物なのにazideはアズ化物じゃなくてアジ化物なんでしょう。たしかに,az-のような子音で終わる閉音節は日本語になじまないので,普通は母音をつけて開音節化するのはわかりますが,それならもともと窒素を意味するazo-という語(語源はギリシャ語のa(反する)+zoe(生命))がありますから,アゾ化物のほうがいいでしょう。外来語で語尾が開音節化される場合は,cup(カップ),bat(バット)のようにu音やo音が付加される例が大半です。おそらくaz(i)という開音節化は,az-ideをazi-deというふうな音節区切りに引っ張られてのものではないかと推測されます。化合物名でこのような和訳例は私の知る限り他にありません(外来語では,stick(ステッキ),deck(デッキ)などのi付加例はあることはありますが)。まさに「塩」は「i」なもの「アジ」なものというわけです。
図2
シアンやアジドは原子団としてハロゲン原子と同様にふるまうのでこれらを擬ハロゲンということもあります。シアンは単独ではジシアン(CN)2として存在するところなどハロゲンそっくりです。ハロゲンでは○化水素酸を略して○酸とよびます。塩酸,フッ酸,臭酸などです(ヨウ酸はあまりきいたことがありません)。同様にアジ化水素酸もアジ酸とよぶことがあります。ところがややこしいことにシアン化水素酸(青酸)とシアン酸はまったく別の化合物です。シアン酸は塩素なら次亜塩素酸に相当する酸素酸で,シアン酸アンモニウムはウェーラーの尿素合成に登場します。イオン性塩の陰イオン成分としてのシアン化物イオンは方向性がないのでシアン化カリウムなどは一種類しかありませんが,共有結合性の有機シアン化物(RCN)には異性体としてイソシアン化物(RNC)があります。これはシアノ基がC側のラジカルとN側のラジカルの二通りの共鳴構造をとれるためです。さらに酸素が一個多いシアン酸の場合は,シアン酸,イソシアン酸のほかに雷酸という変わった名前の異性体があって,これらはリービッヒとウェーラーによる異性体の概念の発見につながる歴史的な化合物です(図2)。アジ化物にも爆発性がありますが雷酸塩は起爆薬として用いられます。いかにもという名前ですね。
執筆者紹介
川端 潤 (Jun Kawabata) 北海道大学大学院農学研究院 教授
[ご経歴] 1980年北海道大学大学院農学研究科農芸化学専攻博士後期課程中退,1980年同農学部助手,1985-1987年オーストラリア国立大化学科博士研究員,1992年北海道大学農学部助教授,1999年同農学研究科助教授,2002年同教授,2006年同農学研究院教授,現在に至る。
農学博士。1992年日本農芸化学奨励賞受賞。
「おもしろ有機化学ワールド」webmaster
http://www.geocities.jp/junk2515/
[ご専門] 食品機能化学,天然物化学
農学博士。1992年日本農芸化学奨励賞受賞。
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[ご専門] 食品機能化学,天然物化学